ごあいさつ

東海道と申します。お店ではありません。A5・2穴のバインダーノートに、スケジュールから日記、写真、スクラップ、コラージュまで、何でも書いたり貼ったりするのが好きです。安くて可愛い文具の紹介もしています。ときどき、紙小物を自作したり、リメイクも楽しんでいます。マステやシールが大好きです。郵便モノ、風景印や記念切手、フォルムカード等も集めています。ガチャガチャ(カプセルトイ)大好き。ペットは日本のカエル10種前後ジョジョスマホを使用(ジョジョラー。7部「SBR」が特に好き)。江戸~幕末歴史オタク(会津藩)。ついでに、初年度からのグランパス・サポーターです。

2012年12月12日水曜日

ずっと悩んでいること、そして我慢がならないこと

昨日(さくじつ)、元プロ野球コミショナーの川島守広氏が亡くなられました

心より、ご冥福と、お悔やみを申し上げます。

悲しくて、悲しくて、たまりません。

私的な会で、お会いしたことがあるのです。


毎年5月上旬に、芝・白金の光禅寺で、会津藩の家老で、戊辰戦争の責任を取って切腹した萱野権兵衛の法要が、切腹した日に近いこの時期に、営まれています。

そちらで、お会いしたことがあるのです。


会津の場合、家訓とかいて、「かきん」と読みます。
また、葵紋は、会津葵で、徳川家とは異なります。

大殿様(会津松平家の現在のご当主のお父上)の奥様が、「この方を、ご存知?」と、ご紹介くださり、「あ、ハイ! TVで、よく拝見しました……」と、(うわ~、この人、プロ野球の元コミッショナーじゃん。ひえ~)と、驚嘆したのですが、TVで見かけた険しい顔とは違って、気さくに、にこにこと、接してくださいました。

10人程度の小さな会だったことも、あるでしょう。

私が、若く、何の肩書きもない、小娘で、一般人だったことも、あるかもしれません。


私は、ただ、自分の「抗いがたい、強烈な私欲」に従って、江戸時代の会津藩の成り立ちと藩政について、そして開国前後~幕末維新~明治以降を、深く、ずっと調べていました。

そして、それについてのHPを、当時主催していたのでした。


晩年の元会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)

すでに、隠居されている大殿様と、初めてお目にかかり、同好の士に、「ほら、○○さん(私)、お会いするの、初めてでしょう。お向かいに座って」と、近くに座らせてもらい、大殿様は、「どうも、容保の孫です」と、実にあっさり、物凄い自己紹介をされて、なんと、名刺まで下さったのでした。

こ、こんな、初対面の、どこの馬の骨とも知れぬ小娘に。

世が世なら華族で(というか、少なくとも、戦前の、お若いときは華族!)、いとこは、皇族の、故・秩父宮勢津子妃殿下。

元より、江戸時代ならば、当主に拝謁できるのは上級武士で、外出は駕籠、お顔を望むことさえままならぬ、存在の方で、

なんといっても、「殿」、「わが公」である、幕末の会津藩主・松平容保に、瓜二つ、実によく似ていらして、まるで、殿ご自身にお目にかかっているような、夢のようなできごとでした。

(今のご当主は、奥様似で、「殿」には、あまり似ていないのですが……。すみません)。


私が、会津には、まるで関係がないのだけれど、会津藩に、とても興味があって、私的に調べている旨、お話したところ、お二人とも(大殿様と川島さん)、「どんどん、おやりなさい」と、励ましてくださいました。

今、その言葉を、強く、ずっしりと受け止めて、胸が裂けそうです。

やっぱり、私は、やるべき、なんでしょうか。


その後、私も、患って、今は、当時ほど”自由”ではありません。

当時のHPも、もう、とっくにないです。


明治に噴火する前の磐梯山

そして、「会津の歴史」についての、別のサイトやブログをすることは、到底、”無理”です。

でも、我慢がならないのです。

どうしても、どうしても、我慢が出来ず、胸がむかむかするのです。


こちら、来年の大河ドラマ・「八重の桜」です。

配役を見て、福島出身の西田敏行さんが、家老の西郷頼母(さいごう たのも)役と知って、「またか(やっぱりな)」と、呆れ、なんとも”絶望的な”気持ちになりました。

自分の”無理”を、鑑みて、「私だけが、知っていればいい(何も言うまい、関わるまい)」と、思っていましたが、大殿様と川島さんの、「どんどん、おやりなさい」という言葉を、川島さんの訃報で、強く、強く、思い出して、胸がはり裂けそうです。

大殿様も、昨年8月に亡くなったと、遅くに知りました。

昨年、福島が、あんなことになって、さぞ、ご無念だった事と、胸の内を思い、心底、悔しいです。

会津は、藩としても、長く、周囲の小藩を、江戸時代からずっと”管理”、そして、サポートしてきたのです。

不作や飢饉の際には、藩士の給料(俸米)をゼロにしていたにもかかわらず、周囲の体力のない小藩、白河などが困窮して、「米を分けて欲しい、少しでもいいから、貸して欲しい」と請いにくるのを、散々断りつつも、結局は競米(金で売る)や振米(ふるまう、ほどこす)して、助けていたのです。

(”請いに来るほうも、よほど切迫している”ことがわかっているので、”貸したり”していましたが、それは面子を重んじた名目で、実際は、返却無用で、身を削り、分けていたと思います)。

(いつの時代も、一番困るのは、最下層とされる人々、江戸時代は農民で、彼らが、厳しい取立てや、年貢を納めきれない、どころか、飢えで死んだり、村を捨てたり、流民となるのが、幕藩体制としては一番、困ることでした)。

(武士は、消費階級で、あくまで、生産は農民(工もありますが)に、負っていたからです)。

まあ、そういう難しい話はおいておいて、

このような幕藩体制の中、時代の流れで、異国船が近海に出没し、黒船が来航して開国することとなり、幕藩体制は、緩やかに変化を遂げようと目論見ますが、実際は、ご存知の通りに、急激に崩壊します。


難しいですが、土居氏の本は、面白く参考になります
幕府は無力・無策だったと、言われるのも、悔しいです

その中心にいたのが、「会津藩と藩主・松平容保」なのですが、なぜか、いつも軽く扱われ、看過されているのが、不思議でたまりませんでした。

なぜ、誰も調べないのが、不思議で、自分で、イチから調べました。


関連本は、100冊以上は、あると思います。
他にも、数万と高価で手が出ない貴重な資料本などは、
県立図書館で借りられるものは借り、
貸し出し禁止になっているものは、コピーするなどして、
そちらも、段ボール箱いっぱいにあります。


まだネットが普及し始めたばかりの頃で、
掘り出し物の資料を求めては、
各地の古書店を定期的に巡っていました。


山本八重子(のちの新島八重)の兄、山本覚馬の小説。

(この人は、鳥羽伏見の戦いでも、”敵”に尊重され、
殺されなかったのですが、それが何故なのか、
具体的な理由がわからないので、その点は、ドラマで
ヒントが得られたらいいと思っています)。


この中に、殿の姉君・照姫や、妻であった先代の娘の敏姫(早世)、
山本八重子についても触れられています。

会津の女性についての本は、この程度でした。


カイチョウロク。呼び名が難しいです
こちらは古文書からの記述の引用も多く、
専門的な研究書で、論文です。

家近良樹さん(も、お会いしたことがありますが(汗))
大学教授で、研究者なので、話が専門的で難しいです(涙)。

(持っているだけで、私のような、シロウトには読みきれません(汗))
(そもそも、古文書の解読は、教室にも通いましたが、
覚えられず、断念しました)。


小説なら、こちら、でしょうか
新撰組なら、笹沢佐保氏の「剣士燃え尽きて死す」(絶版かも)。

綱淵謙錠氏の「戊辰落日」は、再版されているので、
是非、絶対に、読んで欲しい名作です
(容保の人柄や、こらえた憤怒がわかるかも)


そして、自分なりの結論が出ました。

ぶっちゃけますと、

西郷頼母は、最低で最悪に、腐った人物です

いつの時代にも、こういう輩はいるのですが、この時代の、この人がそうでした

松平容保を「養子藩主」とあなどり、自分が初代藩主の保科家の血筋にちかいことばかりを鼻に掛けていただけの、卑しい、からっぽの人物です。

幕末維新の大事な時期に、この人は、何もしない、どころか、容保の失敗をひらすら願い、そのためなら会津藩の滅亡さえいとわず、願い、家老としての役割を、全く果たしませんでした。

そもそも、「京都守護職を、押し付けられたことが悲劇の始まりだった」と、いう書き方をしている”会津側目線の小説”(やれやれ……)があるのですが、それは結果論であって、他(藩、人物)の資料を調べて見ると、「(会津は)まんざらでもない(ようだ)」との記述があります。

だいだい「押し付けられた」では、「押し切られた」殿(容保)を、おとしめ、愚弄することになります。

容保は、自ら挑んだのです。

(当事者は、押し切られたようには書いていないと思います(容保の決断を否定しないため)。その点は、あえて、ぼかしています。後の、小説家が、よく、そういう書き方をしている気がします(容保のせいにするため))。

実際、新しい幕府の役職・京都守護職の拝命にあたり、水面下では、(中心は、横山三郎・江戸家老と推察しますが)、さまざまな交渉が、行われていました。

役料・3万石
彦根藩との領地換え(の噂、実現せず)←この不可は痛かった(※補足後記)
それまでの幕府の最高職である「京都所司代」より、上位であり、
京阪における、大名の指揮権の委譲(副将軍的、開府以来ない程の強大な権力

等、です。

これに対して、国許の会津から、家老・西郷頼母が田中土佐と共に、江戸に駆けつけ、”諫止”したのですが、すでに江戸の会津藩としては、決まったことでした。

何より、藩主・容保が、自ら決めたことです。

田中土佐は、藩主の決断・決定を受け、家老として、ともに京で戦う覚悟を決めました。

当然のことです。

それを、西郷頼母は、”薪を背負って、火中の栗を拾うようなもの”と、無礼な呪いの言葉を吐き、海を眺めて自虐の歌を詠み、諫死をちらつかせながらも、実行する気などさらさらなく、平然と会津に帰って、皆が京都で体を張って戦っていた数年に、ふてくされて引き篭もり、何をしていたかと言うと……、

恐ろしいことに、家族(妻女)に、時世の句を書かせるなど、自害の練習ばかりをさせていました。

戊辰戦争で、会津若松城に篭城したとき、篭城=戦闘員となるのは、武家社会の”常識”だったため、実際に、家族は、逃げるも篭るも、「自由」でした。藩としても、公式に、そう表明していました。新政府軍に投降した者もいました。その中の、”ひとつの選択肢として、自刃もあった”というだけです。

それなのに、西郷頼母は、ずっとその練習をさせ続け、自分は安全な場所にいながら、一家を、自刃さしめたのです。

そうまでして、容保に当て付けたのです。

情の深い容保には、堪(こた)えたでしょう。

妻女が哀れでたまらず、平然と準備・計画して、淡々とやってのける悪魔のようなこの男を、”もはや人にあらず”と、思ったに違いありません。

長引く篭城に藩士の戦意も下がり、これ以上は無駄で、死者を増やすばかりであることから、会津若松城を、開城し、新政府軍に降伏すると容保が決定したときも、西郷は、逆に徹底抗戦を唱えるなど、とにかく、何が何でも、容保に反対せずにはいられない人物でした。

他の家老・家臣たちも、よくぞまあと、あきれ果てたことでしょう。

そのくせ、いよいよ開城に当たって、新政府軍との水面下の交渉で、容保の命は保障すること、代わりに、上位の家老3名が、責任を取って切腹することで決着になると(なりそうになると)、

あれほど、自分は現藩主より保科家に血筋が近い、と威張ってあなどるほどの上位の家老で、徹底交戦を主張していたはずの西郷は、自分が死ぬことになってはかなわん、と、

な、なんと、

夜中に、こっそり、城を抜け出して、逃げたのです!

当人日記には、「(容保から)追っ手が差し向けられ、身の危険を感じた」などと書いてありましたが、ただの自意識過剰による被害妄想で、殺せるものなら、とっくに殺して(切腹を申し付けて)います。

容保のプライドにかけて、こやつは、切腹という、名誉ある武士の死を、申し付けるに与えるに値しない(屑(くず)

まして、自分は、どんな愚臣であっても、家臣を暗殺するような、見捨て、殺しめるような愚かな藩主(人間)ではない、という壮絶な意地・決意、覚悟がありました。

容保は、本当に高潔な人物でした。

そうやって逃げた上位家老の西郷に代わって、繰上げで切腹することになったのが、冒頭に触れた家老・萱野権兵衛です。(3名中、2名は、すでに戦死している、ということにされ、1名きりの切腹となりました)。

彼は「大変に、名誉なこと」と、泰然として受け、開城後、しばらくのち、そのときがきたときに、

容保と、姉の照姫は、「誠に、その死を惜しむ」と、直筆の手紙を書き送り、

萱野権兵衛は、いたく感激し、誇りを持って、いさぎよく切腹したのです。

(切腹は、温情をもって身内に当たる藩で執り行われ、その為に、あらたな建物が建てられたほど、尊ばれました。また、実際には、扇腹といって、刀に見立てた扇を取ろうと、体を伸ばしたときに首をはねるという、苦痛のない形式でした)。

(以前、日本テレビが製作したドラマ『白虎隊』では、この萱野権兵衛の役を、西田敏行さんが演じて”切腹”していたのですが。例の冒頭の法要で、この萱野権兵衛・家老の孫に当たる方もおいでになって(当然といえば当然ですが)、とても物静かで上品な方だったので、

もしかしたら、切腹というラストから巻き戻して、猛々しい人物像となっているだけで、本当は、この方のように、物静かな方だったのかもしれない、と感じました)。(容保と同じで、物静かだけど、芯(信念)は、曲がらずに、強い)。

(本物の、武士)。


さて、そうやって、会津から逃げた西郷は、なんといっても会津藩の家老なので、新政府軍に見つかると殺されかねない、というわけで、とりあえず幕府軍がたてこもる箱館(函館)にいましたが、そこでも戦いには加わらず、のらりくらり。家族が全員自害した中でも、生かして残し、城へ逃した、たった一人の男子も、どこへやら、行方知れずに手放して、

戦後のごたごた(萱野権兵衛の切腹や、主だった家臣の処分(収牢や他藩への預けなど))一切合切が終わったのを、きっちり見計らって、姿を現し、東京へ、のこのこ出てきます。

そして、名前を”念願の”「保科」と改め、信じがたいことに、厚かましくも、当時、小石川に住んでいた容保の屋敷の門を叩き、「留守」を名目に、門前払いをくらうのでした。

どこまでも自己中心的な、恥ずべき人物でした。

はっきり、言います。

西郷頼母は、「会津の恥」です。

+++


自分のやっていたHPで知り合った、会津藩士のご子孫から、先に掲載の容保の写真とともに頂いた手紙です。

何度か、オフ会でお目にかかっていた、この方も、3年前の夏に、急逝されました。

私は、やっぱり……。

できるだけのことは、しようと思います。

何より、自分のために。

ブログランキング・にほんブログ村へ  
HPをやっていた当時から、「容保と会津藩を知る為に、お勧めの本は何ですか?」と聞かれましたが、「ない」です。今でも、ないと思います。(だって、折角の大河がアレではね)。(相変わらずなんだ、と思い知らされました)。(ついでに、年始にも、西郷頼母のドラマがあります。すごいや……)。



今日(12/19)、友達とのお茶に名駅に行ったら、構内にCMを見つけましたー。びっくり。
やれやれ……。7時間も、一体、何をするんだか……。

友達が、歴史にも興味があって、この記事も、何度も読み返したよって言うから、ありがたくて、また、立て板に水のごとく、会津について話しまくったけど、こういうの、見ると、やっぱ、ムカツクわ~~~。

+++

(※)彦根(井伊)藩との領地換えについて・・・恐らく家老たちは提案し、進言したと思われますが、容保自身が「懲罰的すぎる」として却下したと推察されます。暗殺された井伊大老について、幕府自らが、”井伊体制”を否定することになり、幕府権威の失墜・弱体化を招くうえ、容保は、高須藩から会津藩に”未来の会津藩主”として養嫡子に来た子供の頃から、同じ「溜の間詰」格の彦根藩・井伊直弼には、可愛がってもらっていたのです。

個人的にも、尊敬していました。大老暗殺の動きは、井伊直弼もわかっていた上、当日朝にも、家臣が「危ないので、(江戸城)登城は、されないほうがよいのでは」との進言がありましたが、一蹴していました。殺すのなら、殺せばいい。ただ、暗殺を恐れて、藩邸(役邸)に引き篭もる(いつまで?)ほど愚かではない、まして自分は大老だ、と。

容保が、どれほど井伊直弼を尊敬していたかというと、開城の際、持ち出せた刀のひとつが、「井伊直弼の形見分けの刀」であったことからも、わかります。孝明天皇の宸翰と御製・同様に相伝していることから、会津松平家にとって「もっとも大切な刀である」と、推察されます。

(他、ほとんどの物は、新政府軍に略奪・破壊されて、残っていません)。(明治期、”大名の体裁”さえ整えられない”会津(容保)”を不憫に思って、他の大名たちが”道具”を分け与えてくれたぐらいです)。(略奪されたものでも、見るからにお宝の金屏風などは、博物館にはあったりします)。

(新政府(軍)が、会津藩(上層部・当事者)に対し、あまりに冷淡で強硬であると、(「疲弊した会津若松城に強行突入し、容保以下、全員、切腹・討ち死になど、絶対にしてはいけない、させてはいけない」)、折角、黙らせた他の大名たちが、黙ってはいない流れ(各地で決起)になることを、恐れていたからです)。

ほら、パンドラの箱を開けちゃったな~。話し出すと、止まらないんだよねー。

あ、大殿様に、こんなこと、聞いたわけじゃないですよ。法要とはいえ、フランクな場だったし。大殿様(と奥様)のかもしだす貴族的なオーラに、”貴族とは、こういうものか”と、感じ入っていただけです。

+++

夜、ドラマが好きで綾瀬はるかちゃんも好きな家人が、大河「八重の桜」のメイキングを見ていたので、早速、ツッコミを入れたところ、「風呂でも入っていろっ」と、追い払われました(しゅん……)。

綾瀬はるかちゃんには、「かろぉ~、もっといい銃ぅ~、手に入りませんかねぇ~」(ゴロゴロゴロ~)
かろぉ「うるさいっ。お前は、我が会津藩の財政難が、全くわかっていない!」
干物八重「そんなことぉ、わかる訳、ないじゃないですかぁ~」。「表向きのこと、女は無用ぉ~(女は政治に関心を持ってはだめ、との意)」
かろぉ「勝手なときだけ、勝手なことをいって~(イライラ)」

(まあ、倹約令や給料カットは、毎年のようにあったんで、武家の女性も、家事・内職に畑仕事と、せっせと働いていましたけどね)。

そぉだ、八重は、いっそのこと、上洛して蛤御門の変から鳥羽伏見の戦いまで、全~部参加しちゃう、ってのはどうですかね。
どぉせなら、そのぐらいやってほしいな(笑)。(”ジャンヌ・ダルク”だし…… orz)。

あ、そぉだ、当初は、京都守護職について、「勝手向き、不如意(お金がないんで、出来ません)」って、断っていたんだった。(とぉしょはね)。