ごあいさつ

東海道と申します。お店ではありません。残念ながら病気になってしまい以前のような活動はできなくなりました。横になっていることが多いです。あせらず、のんびり、今、出来ることで日常が楽しめたらいいいな、と思います。本当にささいな記事となりますが、応援していただけたら嬉しいです。ペットはヒキガエル2匹。江戸~幕末歴史が好き(会津藩)。グランパス・サポーター。(グランパスがJ1に復帰できて嬉しいです)。V6(坂本くん)がずっと好き。マンガ「ゴールデン力ムイ」にハマっています。(尾形さんが好き)。小説を書くことが新たな趣味になりました。

2013年2月4日月曜日

「なめこ栽培」のマスキングテープと「赤べこなめこ」のストラップ(と「八重の桜」の補足)

相変わらず、「なめこ栽培」グッズに 、ハマっています。

(はっきり言って、紹介しきれないぐらい、沢っっっ山です・汗)


とりあえず、今日、ご紹介するのは、マスキングテープ4種です。


柄です。

どれも、可愛くてお気に入りです♪ 


amazonでは、会津の「赤ベコなめこ」のストラップを注文しました。


送料が、商品ぐらいかかってしまい、これ一品に1000円ぐらいかけてしまったので、送料に気をつけなくては、と思いました。

でも、可愛くて満足!です。

(福島限定は、他に、「白虎隊なめこ」と「桃なめこ」があります。が、赤ベコが好きなので、赤ベコだけを、ゲットです)。

+++

大河ドラマ「八重の桜」、今日は、かなりきつかったです……。

そろそろ、きつい……かもしれません。

吉田松陰の死刑よりも、「戊午の密勅(ぼご(年)のみっちょく)」と、水戸(+尾張)vs幕府の板ばさみとなった”容保の苦しみ”について、説明をさくべきでした。

それでも、何となく、山本家(覚馬)が、ああでは、これは会津藩の中核には迎えられない、むしろ獅子身中の虫として、要注意人物とされ、マークされていたとしても、さもありなんとは思いました。

あと、”会津獅子と山川大蔵”を、出すのが早すぎで、(戊辰戦争時、山川大蔵は、会津獅子を押し立てて、新政府軍に囲まれた中を突破し、会津若松城に入城する)、”あのときの”とは、視聴者は思い出さないと思うし、それって、エピソードとしては有名だけど、そんなに重要かといえば、そうでもないです。

それと、幕府は無策ではなく、策を色々と講じていたけれど、要するに「お金が無くてできない」のと、井伊直弼の前の、黒船来航時の開明的な老中・阿部正弘が、江戸開府以来、初めて、全国の大名たちに、開国についての「意見」を聞いたことから、

それまで、幕政に関わること、口出しをすることを許されなかった、外様や御三家などの大名や、藩士たちまでが、幕政に関心を持ち、関わることを抑えきれなくなった流れになってしまったのです。

(ちなみに、大半の答えは、「よくわかりません(特に意見はありません)」です。当たり前といえば、当たり前ですが、考えてはいけないのがルールだったので、いきなり、そんなことを聞かれても、よい案・答えなど、浮かばないのでした)。

その中で、水戸斉昭だけが、はっきりとした意見を持った、というか、押し出しの強い人物だったので、安部正弘は、水戸との連携を取り始めたのですが、この斉昭はこともあろうに、将軍の寝所である大奥に押し入り、女性を手篭めにするという、とんでもないことをやらかしたのです。

そんなこともあって、阿部亡き後、幕府は、水戸を要注意とマークしていました。

水戸藩というのは、尾張もそうですが、そもそも、将軍家の予備で、家康の血筋が途絶えたときに、将軍を排出するための存在だったのですが、8代将軍時に、紀伊出身の吉宗が、自分の子孫が常に将軍となるように、御三卿(田安・一ツ橋・清水家)を作ってしまったため、

水戸と尾張が、将軍になれるチャンスは、永遠に奪われてしまい、尾張にいたっては、幕府から、紀伊系の押し付け養子を藩主にする流れにまでなってしまっており、

尾張藩には、高須藩という、尾張藩主の血筋が途絶えたときの分家があったものを、尾張藩主にさえなれない、(幕府の傀儡の藩とさせされている)という恨みがありました。

その、高須藩の出身が、なんと、松平容保・現会津藩主です。

尾張支藩高須藩は、容保の実家です。

会津藩の先々代は、子供がいないまま、急逝し、困っていたところへ、水戸の藩主の第何子か、息子が、他藩へ養嫡子(未来の藩主)となることが決まり、丁度、女性との間に男子が生まれたばかりで、

男子の扱いに困っている、との話を聞きつけた、会津藩江戸家老・横山三郎が、女駕籠で乗り付けてもらいうけ、末期養子として届け出た、水戸の血筋であることは、公然の秘密でした。

先代の会津藩主、容保の養父は、水戸の血筋なのです。

会津藩は、井伊藩と同じで、江戸城においては溜まりの間詰め格で、実際に政治を行う親藩でした。(政治なんて、俗なことは、家臣の格(家康の親戚・孫系も含む)がすることとされ、家康の子である御三家は尊ばれる存在であるために、政治に関わることはない、とされました)

井伊直弼は、彦根藩主の息子でしたが、藩主には到底なれない14男で、40歳を過ぎるまでは、”部屋住み”、肩身の狭い思いをして彦根にいました。が、人生はどうなるかわからないもので、40歳を過ぎてから、急に、藩主の座が回ってきたのです。

江戸へ向かう駕籠の中で、感涙にむせび泣き、この身を幕府にささげると、強く決意しました。

さて、そんな40歳過ぎの藩主が江戸城での作法もわからず、右も左もわからない”新人”でいたのを、フォローしたのが、会津の容敬でした。

直弼は、感激して、なかなか跡取りが育たず、困っている、などと話していた容敬が、養嫡子(のちの容保)を迎えたことに対して、「まるで、自分に子供ができたようで、嬉しく、めでたいです」と喜びました。

当時、房総半島を、警備していた、会津藩に比べ、「自藩(彦根)が、勇猛だったのは遠い戦国時代の話で、今は軟弱で役に立ちません」との嘆きも、打ち明けたりしていました。

(とはいえ、むざむざ藩主を殺されるほど腑抜けていたわけじゃないです。当日は雪が降っていたせいで、刀の柄にカバーを掛けていたため、彦根藩士は、抜刀が、暗殺者たちに比べて遅れたのです)。(そういうのって、焦るほど、時間がかかっちゃうものだし)。

その、容敬が亡くなって、わずか17歳の少年・容保が藩主となったとき、直弼は、自分が、容敬にしてもらったように、父親のように、右も左もわからない、茶坊主ひとりをつれて入る江戸城のしきたり・作法などを、教え、支えになったのです。

ところが、時代の流れで、水戸(+尾張)vs幕府(将軍家・紀伊)という対立の構図は、開国を巡って深刻さを増し、

本来、登城(江戸城へ行く)日以外は、登城をしてはならない、ものを、水戸斉昭が、”求めてもいない意見”を述べに、登城に来たため、大老・井伊直弼は、内政干渉であるとして、厳罰を下したのです。

(ちなみに、御三家であっても、用件がある場合は、老中の屋敷に赴かなければなりません)。(また、幕府が政治的な決断を下す場合、将軍の側に控えるのは”溜まりの間詰め格”の大名たちで、御三家は、他の大名と共に、それを平伏して聞く立場でした)。

その処分されたものの中に、容保の実兄で、今度こそ尾張藩主に、と容保の実父が期待をこめていた、実兄・慶勝がいました。

若い容保は、父親のように慕い、政治的にも立場を同じくする溜まりの間詰めの井伊直弼と、実家(実父・実兄)との間で、板ばさみとなり、大変な気苦労を強いられました。

今回、井伊直弼が討たれたにもかかわらず、「脱藩士が行った暗殺で、水戸藩を討つことはない」と容保が反対、反論を言わしめたのは、実はこの実家(実父・実兄)の意向で、裏で糸を引いているからなのです。

容保は、この時点では、まだ、”実家”を”頼り”にしていましたが、その後、水戸藩も、尾張藩も、思想や藩の方針を巡り、壮絶な内ゲバに突入し、容保は、やがて、実兄が継いだ尾張藩からも、敵として、戊辰戦争で攻撃される羽目に陥るのでした。

にほんブログ村 雑貨ブログ ステーショナリー雑貨へ 

「戊午の密勅(ぼご(年)のみっちょく)」……、あー、めんどくせー。(あ、つい口が悪く)

水戸藩は、江戸初期から将軍になれなかった腹いせに、水戸学という、「将軍より天皇(朝廷)がエライんだ」という尊皇の気風を育ててきました。

(家康は、徹底的に、天皇を政治から排除して、儀式や祈祷のための存在と定義づけた、にもかかわらず、です)。

そこへ、開国の知らせを受けた孝明天皇が、無知であるがゆえに夷敵(外国人)を大変に怖がって、「開国には反対だ」という意見、すなわち”勅令”を、密かに水戸藩に下した(将軍家・幕府の頭ごなしに、天皇・朝廷が、政治的に介入してきた)、とのことで、その勅令を、口実に、水戸が幕府に表立って反旗を翻す前に、幕府が取り上げようとした件です。

水戸を討つ、とは極論のように思えますが、そういった込み入った事情もあってのせいです。

(あと、水戸と彦根は、何だったかなー、何かの利権争いで、ずっと揉めていて、仲が悪かった背景もありました)。

というか、会津藩の話なんだから、
吉田松陰よりもこっち、容保の事情をやれよ、と思う。

井伊直弼の粛清を、”幕府の走狗”とか、言いやがって、許さ~ん!

(来週(次回)、容保が涙目で、「京都守護職を拝命する」とか言うのも、許さんッ!)

(やっぱり、精神衛生上、見ないほうがいいな)。(ってか、家人が観ているからなんだけど、彼も”そろそろ辛い(つまらない)”と言い出してきたので、止めてくれたら、私も見なくなります)。

さらには、「将軍継嗣問題」です。

13代将軍・家定には、子供が作れないことがわかっていたため、誰が14代将軍となるかについて、考える必要がありました。

切れ者との噂の高い一橋慶喜が有力だったものを、斉昭の狼藉もあって、水戸を毛嫌いする大奥の大反対もあり、また、水戸の政治的介入を嫌った井伊直弼が、紀伊の少年藩主を、時期将軍と決めてしまったことで、堪忍袋の緒が切れて、血気盛んな水戸藩士が脱藩士となって、大老を襲った、という背景もあったのでした。